裏人生ノート

表じゃ言えないこと

【絶】信心【対】

こんばんわてらです。


今日も徒然なるままに書いていきます。


28日は不動明王の縁日であり、1月の28日に日本三大不動尊で行われる初不動大法会へと赴いてきました。


そこで僕が護摩木に書いたお願い事は


報恩謝徳

家内安全


家内安全や開運厄除け、学業成就や諸願成就等々はよく聞くかと思います。


報恩謝徳とは

--以下引用--

恩に報い徳に謝す。 

恩に感謝し報いること。 

その徳に感謝して受けた恩に対して自分のできる限りのことをしようという気持ち。 

報恩は受けた恩に報いることで報徳ともいう。 

謝徳は受けた恩に対して感謝の気持ちを表すことで謝恩ともいう。 

厳密には恩に報いるのではなく、受けた恩徳に対して如何ともしがたい感謝の気持ちが芽生えてどうしても報いたくなることを示す。

--引用おわり--


というので、これがまた強すぎる…


何が強いってこれ結局巡り巡って自分に帰ってくるんですよ。いい方向で


先の日記に書いた売られた恩は返せってこれ、具体的にどうするのかというと


単に「こないだはありがとうな」と感謝の意を伝えたり、こないだのお返しにと茶菓子を差し入れるとかほんとにその程度のことでも十分恩返しになる。


そうするとまた焼き肉に連れていってもらえる。


まぁそういう感じのおはなし

回顧録

____節分_____

昨日、今日と某温泉地にいたんですけど、帰ってきてから某てらで行われる星祭り・開運厄除け祈祷に行って来ました。


節分は立春の前で、立春とは二四節季のひとつで星の動きとして新たな一年が始まる日であります。


占星術とかね、ああいうやつ。暦とか

 

で、僕はやっと後厄を終えた訳ですが、厄年だろうがなかろうが、無病息災、開運厄除け、財福増長、心身健康等々を1年の始まりに祈祷して運勢をあげあげしてこうぜってのが星祭り


ぶっちゃけた話、本堂で護摩壇の前に座って祈祷してもらうのは初めてだったんですけど荘厳でした。


やはり全体的な年齢層はやや高めで、おそらく僕くらいが最年少になってくるんだと思うんですけど会社名義で来てる人達は若い人達が多かったですね。

 

まぁ、そりゃあこのご時世スマホ開けば面白い情報がいっぱい転がってるのにわざわざお経覚えて寺なんかに行くやつなんて僕くらいしかいないでしょ


スマホがない時代とスマホがある時代と、両方経験してる僕たちの世代が色々と終わりを経験しなければならないのだなと日々痛感します。(技術革新が続くかぎり終わりがないんだけどね。自動運転技術が完全に自動化されればタクやバス、トラックの運ちゃんはいなくなる。人力車のそれみたいに)

 

今読んでるやばい本だと明治や大正あたりの密教に関する本なんですが、携帯やテレビや況んやカセットデッキをやといった時代の人達は信心深い人が多いですね。


僕が密教を勉強しているのは知的好奇心の延長線でそれは一体何で、何が正しくて、俺は今後どう生きるべきなのかの指針を日々探しつつ人生の改良を重ねてるだけなんですけど、歴史の風雪で洗練されてきてなお、今現在も残っているものにはいいものが多い。


現代人は私利私欲にまみれているから摩滅(まめ)大師を降ろしたら人間を摩と間違えて罰を与えそう


みたいな僧侶の話にある通り我利我利の欲まみれじゃないですか?俺達


そのなかで、

安い高い

少ない多い

とかこう相対的に物事を見る癖がついてしまっている。

 

そういった次元を越えて存在する絶対的なもの-そう、俺が求めている真理-それを崇めて礼拝合掌する信心があって、自己のアイデンティティが確立されるという仕組み。


この仕組みが今ではインスタ映えさせたもん勝ちみたいになってるじゃないですか。インスタば得させられないやつは生き残れないみたいな


誰かと、なにかと常に比較しながら生きてるからしんどい。俺もしんどい。

 


つまり、何が言いたいかというと

 

 


出家してぇなぁって。

 

 

でもセックスもしたいし(欲まみれ)

 

 

 

 

 

 

人生バランスが難しい。

 

おしまい